復縁も新たなご縁も心根次第
恋愛は素晴らしいものです。
一瞬にして人を天国へ連れて行き、天使の歌を奏で聴かせます。
素晴らしい文学や音楽の多くも、この儚い恋愛という非日常の出来事によって、次々に生みだされてきました。
ですが、
恋愛は、冷めてしまえばクソなのです。
恋愛を過大評価してはいけません。
失恋は、この世に起こる憂き目において、最も贅沢な悩みだといえます。
何故なら、この世には男も女も星の数ほどいるし、男にしろ女にしろ恋人と別れたくらい、生きていく上で何の支障もないし、何の事件にもなりません。
離婚ともなれば、慰謝料やら養育費やら、専業主婦なら仕事を見つけたりと、訴訟や金銭上でもいろいろ面倒な問題がでてくるでしょうが、
恋人との別れなんて、実害のない、所詮、箸を持つのが重くなる程度のことなのです。
ただ、赤の他人がいなくなるだけのこと。
とはいえ、渦中の人はこの世の終わりだといわんばかりに沈み込みます。
食事もとれず、眠ることも出来ないのです。
やめましょう。
クソのために、もう自分を痛めつけるのはやめるのです。
縁があれば、また結ばれるということを知りましょう。
そして別れにより、新たな縁が生まれることも知りましょう。
痛みを手放す
人との出逢いは、ご縁です。
恋人との別れは、新たな縁を結ぶために絶対に必要であり、
それが復縁なのか、別のご縁なのかは神のみぞ知るところであり、
良縁をいただけるかどうかは、その人の心根に懸かっています。
そしてどっちにしろ素晴らしいご縁を頂くには、
早々に失恋の痛みを手放さなければなりません。
痛みの原因は執着心です。
失恋に苦しむのは、失うことへの恐れ(執着)があるからであり、去る方からみても、執着ほど醜く重くうざいものはありません。
執着という念の威力は絶大で、恐ろしいことに、たとえ離れて音信不通であったとしても、その邪悪な念は相手へ届きます。
何故ならこの世のものは皆、同じ宇宙というエネルギーで繋がっているからです。
もしもあなたが復縁を望んでいるのなら、執着は更にその縁を遠ざけるということを覚えておきましょう。
うざいやつからは誰もが逃げたくなるものです。
もしもあなたが、この失恋の苦しみを今すぐ脱し、新たな幸せを見つけたいのならば、早々に執着を手放しましょう。
去っていく恋人は、去っていくから美しくみえるのであり、冷めてしまえば、なんのことはないだだの男であり、女です。
今ある現実は、あなただけが未だ魔法にかかっている状態で、別れを選んだかつての恋人は、既に魔法がとけている状態です。
あなたも、美しい思い出や愛や受けた痛みをいったん脇において、クールに相手を見てやればいいのです。
どうですか。
たいした相手ではないでしょう。
痘痕もエクボ(痘痕もエクボのように可愛く見える)
歯糞も金歯(歯糞も輝いて見える)
禿げもリボン(禿げもチャームポイントに見える)
幻覚なのです。
愛だの恋だの、男女が子孫を残すべく与えられた幻覚のために死んでいくのは、シェイクスピアの本の中だけで充分ではないですか。
苦しみを消す菩薩の精神
それでも
「この恋は本物だ」
「自分にはこの人しかいない」
「忘れることなど絶対にできない」
と息巻くのなら、相手の全てを愛するしかないでしょう。
今生で結ばれぬのなら来世で逢おうと、潔く身を引き
愛された記憶も、傷つけられた憎しみも、別れを選んだ裏切りも、全て受け入れ、
たとえこのまま逢えなくても、自分の元に帰ってこなくても、
菩薩のようにただその人の幸せを想い、祈り、
その人に与えるはずだった愛や優しさを他者へ施し、そんな自分を愛し、誇りに思い生きていく。
その思いは執着ではありません。
欲さず、与える愛です。
執着という悪感情ではなく、その心根にあるのは崇高な愛。
そこに恐れなど微塵もなく、あるのは穏やかさを湛えた湖のような落ち着きだけ。
そんな心に良縁が引き寄せられないはずはありません。
悪縁も良縁も、自分の心の奥が引き寄せます。
良い心には良い縁だけが舞い込むのです。
崇高な愛は、執着を捨てます。
復縁も新たなご縁も、その心根で決まることを覚えておきましょう。
もしあなたが、そんな崇高な愛なんて無理だ、とはなっから否定するならば、その愛は我欲です。
そんなあなたの見せかけの愛を、相手は心の奥底(潜在意識)で見抜いていたということなのです。
「誰かを愛することは、その人に幸福になってもらいたいと願うことである」
トマス・アクィナス